原爆の子の像

佐々木貞子さんは2歳8ヵ月の時被爆され、12歳で急性白血病と診断されました。貞子さんは、鶴を千羽折ると願がかなうと信じ、夜も眠らず「生きたい」と言う願を込めながら薬の包などで鶴を折り続けましたが、その祈りもむなしく9ヵ月の闘病生活の後、亡くなられました。

友人達は「広島平和を築く児童生徒の会」を結成し、全国に呼びかけて「原爆の子の像」をつくろうと運動を起こしました。広く国内外から募金がよせられ1953年5月5日の子供の日に除幕されました。

祈り鶴は「再び被爆者をつくらない」決意の証として、国内外でも反核のシンボルとして使われています。


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